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川崎ショールーム
現在の場所:ホーム / アーカイブハーマンミラーの歴史

ハーマンミラーの歴史

Willi Fehlbaum

2022/07/06 By TARO KATAGAMI

ウィリー・フェルバウム

チャールズ・イームズ(写真左)、エリカ・フェルバウム(写真中央左)、ウィリー・フェルバウム(写真中央右)、レイ・イームズ(写真右)

1934年、ヴィトラの創業者であるウィリー・フェルバウムは、1906年にバーゼルで設立された店舗什器設備会社を引き継ぎ、妻のエリカ・フェルバウムと共に経営しました。 1950年、彼らはドイツのWeil am Rheinに、Vitra という名前で子会社を設立しました。Vitra AG は、1953年にスイスで小さな家具と家庭用電化製品の製造を目的とした会社として設立されました。

1953年、米国を訪れたウィリー・フェルバウムは、チャールズ&レイ・イームズの家具に出会います。チャールズ&レイ・イームズがデザインしたプライウッドの椅子に感銘をうけた彼は、すぐにイームズ夫妻のもとを訪れ、その後、生涯にわたり変わることのない友情を育みました。家具メーカーとなることを決意したウィリー・フェルバウムは、アメリカのメーカーであるハーマンミラーからヨーロッパ市場向けの製造権の取得を働きかけました。

1957 年にライセンス契約が成立した直後、フェルバウムはヨーロッパ市場に向けてハーマン・ミラー製品の生産を開始しました。このコレクションには、イームズの家具とともにジョージ ネルソンのデザインも含まれていました。

1960年代後半以降、Vitraは、独自の家具ポートフォリオの構築を開始しました。 1967年、数年の開発期間を経て、後ろ脚のないプラスチック製の椅子が生産されました。この製品は、ヴェルナー・パントンによって設計され、パントンチェアとして広く知られるようになります。 1976年、同社初のオフィスチェア、ヴォルフガング ダイシグがデザインしたヴィトラマットが発売されました。

Filed Under: Herman Miller Story, Vitra Story 関連タグ:Vitraの歴史, イームズ, チャールズ, ハーマンミラーの歴史

Don Chadwick

2018/11/02 By TARO KATAGAMI

ドン・チャドウィック

ドン・チャドウィック

ともに1936年生まれのビル・スタンフとチャドウィックは、オフィス家具史上における最強のデザインデュオ です。

チャドウィックは家具職人である祖父の影響で家具作りに興味を持ち、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で工業デザインを学びました。1976年から1985年にかけては、UCLAで教授として教鞭をとっています。UCLA卒業後、建築事務所で働き、1964年に自身の設計事務所を設立しました。

1974年にHerman Miller社のモジュラー・シーティング・システムを設計し、その後、Herman Miller の元デザイン研究担当副社長である Bill Stumpf と協業がスタートします。

1976年のErgon chair (アーゴン・チェア) 、1984年Equa chair (エクア・チェア) に続いて、スタンフとチャドウィックはハーマンミラー社のパイロットプログラムのなかで「高齢者向けの快適な椅子」の研究に取り組みました。長い時間座っている人が皮膚障害を発症しないようにエアレーションを重視し、通気性の良いテキスタイルを採用したSarah Chair (サラ・チェア) のプロトタイプを開発しました。

このときの経験が後に Pellicle (ペリクル) と呼ばれる織りメッシュのテキスタイルを生み出します。

ペリクル

チャドウィックとスタンフのパートナーシップは、チャドウィックのマテリアルと製造プロセスへのこだわりと、スタンフの人間工学(エルゴノミクス)へのこだわりに基づいていました。

ペリクル アーロンチェア

素材(ペリクルと呼ばれる全く新しいサスペンションテキスタイル)と人間工学(1から99パーセンタイルまでの体にフィットするように設計)は、開発当初から最重要視されていましたが、それに加えて長く使えることも重要でした。 その結果、高度な技術を駆使し、ほぼすべての人に適した、耐久性のあるチェアが完成したのです。

それが、アーロンチェアです。

Filed Under: CHAIR株式会社, Herman Miller, Herman Miller Story 関連タグ:アーロンチェア, ハーマンミラーの歴史, ビル・スタンフ

Action Office

2018/10/17 By TARO KATAGAMI

アクション・オフィス

アクションオフィス

ロバート・プロプストが率いるハーマンミラー・リサーチ・コーポレーションが開発したアクション・オフィス・システム(Action Office I )はジョージ・ネルソンのデザインによって、1964年にハーマンミラーから発表されました。アクション・オフィス・システムは、パネルとそれに付属したコンポ―ネントからなる、世界初のオープン・プランのオフィス・システムでした。

アクション・オフィス

1968年に発表されたハーマンミラーのアクション・オフィス・システム(Action Office II)において、ロバート・プロプストはアクション・オフィス・システムのベースとしてモジュラー・パネルユニットを導入しました。オフィスデザインに革命をもたらすものでした。

アクション・オフィスは、ロバート・プロプストのモダンオフィスに対する様々なアイデアを具現化したプロダクトです。1960年に創立されたハーマンミラー・リサーチ・コーポレーションでは、数学者や行動心理学者を含む様々な分野の研究者の理論を参考対象にしていました。

たとえば、エドワード・T・ホール (文化人類学者) は、“かくれた次元” (1966年) でパーソナルスペースを定義しています。これは、距離によって起こる人間の空間知覚の変化を示した理論です。

1.密接距離 親しい人に許される空間 近接相(0〜15cm)/遠方相(15〜45cm)
2.個体距離 相手の表情が読み取れる空間 近接相(45〜75cm)/遠方相(75〜120cm)
3.社会距離 容易に会話ができる空間 近接相(1.2〜2m)/遠方相(2〜3.5m)
4.公共距離 複数の相手が見渡せる空間 近接相(3.5〜7m)/遠方相(7m以上)

第二次大戦中に進化した軍需産業技術(繊維強化プラスチック)を製品に転用し、チャールズ・イームズは新時代の製品を生み出しました。プロプストは、当時の新しい知覚理論を援用して新時代のオフィス空間を生み出したと言えるかも知れません。

パネルシステムの導入によって距離による知覚は遮断されます。アクション・オフィスは、この遮断機能を利用することでオフィス空間のパーソナルスペースをコントロールしようとした初めての試みでした。

アクション・オフィスは、時間をかけてオフィスが必要とするものになるように、組み合わせたり再結合したりできる一連のコンポーネントとして設計されました。マウス・パッドのデザイナーであるデザイナーのジャック・ケリーは、1960 年代から 1970 年代初頭にかけてプロプストと協力し、多くのアクション・オフィス・コンポーネントのデザインにおいて重要な役割を果たしています。

アクション・オフィスによって人々の実際の働き方に適したワークスペース・ソリューションを実現することが可能になりました。と同時に、オフィスの空間をパーティションで分離し、個々のワークスペースをつくりだすオフィス・スタイル、後に「キュービクル」と呼ばれるスタイルを生み出す契機となります。

アクションオフィス

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Bill Stumpf

2018/10/06 By TARO KATAGAMI

ビル・スタンフ

Bill Stumpf

ビル・スタンフはウィスコンシン大学の環境デザインセンター大学院で研究したのち、1970年からHerman Miller Research Corporationのスタッフに加わりました。当初はジャック・ケリーのもとでアクション・オフィスの開発に携わっています。「ビルの優れた問題分析能力は、私たちが革新的な製品ソリューションを開発するのに役立ちました」とケリーは語っています。

その後1976年にハーマンミラー初のエルゴノミクス・オフィスチェア Ergon chair (アーゴン・チェア) をデザインパートナーとなるDon Chadwickとともに制作しています。

Ergon chairは、整形外科や血管医学の専門家と協力し人間工学的なアプローチから設計された最初のオフィスチェアでした。Ergon chairは、現在ではオフィスチェアに標準的に装備されているガス圧シリンダーを備えていました。

1979年に人間工学に基づいた着座ソリューションを設計するためにドン・チャドウィックとチームを結成しました。そして登場したのが、Equa chair (エクア・チェア)です。

Equa chairは広範囲のオフィスワーカーのサイズに対応するために3つのサイズで提供された最初のオフィスチェアでした。

1984年にはケリーとオフィスシステム家具 Ethospace (イソスペース)の開発に取組んでいます。ビル・スタンフ と ジャック・ケリー は、コンピューターがオフィスに導入されはじめた当時の状況や変化が、人々のニーズにうまく対応できていないことに気づきました。彼らは、スタンフが言うように「人間の精神を否定する」デザインの例をあまりにも多く見てきました。二人はより良いものを作るために着手しました。

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Robert Propst

2018/09/28 By TARO KATAGAMI

ロバート・プロプスト

ロバート・プロプスト

Herman Miller Research

1921年コロラド州生まれのプロプストは、グラフィックアーティスト、教師、彫刻家として1940年代後半にキャリアを開始しました。 1953年にはデンバーで製品開発専門のPropst社を設立しました。

1960年にはミシガン州アナーバーのHerman Miller Research Divisionの社長に就任。Herman Miller Research Divisionは、のちにHerman Miller Research Corporation となります。就任の際にプロプストは語っています。”現在のオフィスは不毛地帯です。活力を失わせ才能を奪い達成を困難にします。実現されなかった企画やむなしく失敗した努力が常態化しています”

最初のプロジェクトは、20世紀に進化したオフィスの評価でした。特に1960年代にどのように機能したかを評価することが重視されました。プロプストの調査には、人々がオフィスで働く方法、情報の移動方法、オフィスレイアウトが業績にどのように影響を与えるか、について学習することが含まれていました。

研究から20世紀の間に特に処理される情報の量の劇的な増加を考慮して、オフィス環境が大幅に変化したと結論づけました。従業員は日々の業務で、多くの情報の分析と整理をする必要がありました。にもかかわらず、オフィスの基本レイアウトはほとんど変化しておらず、従業員はプライバシーを欠いていた広いオープンルームに昔ながらのデスクを並べ整列していました。プロプストの調査はオープンな環境が、従業員間のコミュニケーションを減らし主体性を妨げていることを示唆していました。プロプストは、「今日のオフィスの残念な状況の1つは、すべての人に同一の決まりきったかたちを提供する傾向です」とコメントしています。さらに、従業員の身体は長時間座っているという状態に苦しんでいました。プロプストは、オフィスワーカーは、彼らが遂行している多くの業務に応じて、プライバシーと相互作用の両方を必要としていると結論づけました。

アクション・オフィス II

アクション・オフィス II

この問題に対するプロプストの答えが1968年に発表されたアクション・オフィス II (Action Office II)でした。アクション・オフィス II はオフィスシステム家具に革命を起こしました。アクション・オフィス IIは、モジュラーパネルユニットをベースにしていました。それぞれのコンポーネントは互換性があり標準化され組立とインストールが容易でした。また柔軟性が高くニーズが変化したときに作業環境を変更できることができました。デザイナーのJack Kelleyは、1960年代から1970年代初めまでプロプストと作業し多くのアクション・オフィス・コンポーネントの設計において重要な役割を果たしました。アクション・オフィス・コンポーネントの登場により、アメリカにおけるオフィスの景観は一変することになります。

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Alexander Girard

2018/09/25 By TARO KATAGAMI

アレキサンダー・ジラード

アレキサンダー・ジラード Alexander Girard  1907-1993

アレキサンダー・ジラードはニューヨーク生まれのイタリアのフィレンツェ育ち。イギリスの高校を卒業してロンドンとローマの大学で建築を学んでいます。アメリカに戻ってからはニューヨークにオフィスを開設し、その後デトロイトにオフィスを移転します。1953年にニューメキシコ州のサンタフェにオフィスを移転し、以後生涯この地で過ごします。青少年期に様々な文化の中で成長したことが、ジラード独特の感覚を研ぎ澄ましたのでしょうか。彼のポートレートは、どれも洗練された着こなしで穏やかな微笑みを浮かべています。きっとエレガントかつチャーミングな紳士だったのでしょう。

1952年、ジラードはハーマンミラーのテキスタイル部門のデザインディレクターに就任しました。彼の最初のファブリックコレクションは、ストライプ、サークル、トライアングルなど幾何学的なパターンで構成されています。ジラードは世界各地のフォークアート (宗教、民族性、地域性を背景にした伝統的な形態や様式をもつ作品) に強い関心を寄せ触発されていました。フォークアートに見られる単純なモチーフの反復と変奏は、ジラードのテキスタイルデザイン全般において重要なテーマでした。色と色の組み合わせに対する彼の独創的な感性もフォークアートからの影響を見て取れます。

Textiles & Objects shop

テキスタイルズ&オブジェクツ

1961年にはニューヨークにハーマンミラー初の路面店“テキスタイルズ&オブジェクツ” (T&O) をオープンさせています。ジラードデザインのファブリックに加えてジラードが集めた各地のフォークアートやジラードデザインのオブジェを取り揃えていました。

La Fonda del Sol

SUN

1960年に総合デザインを手掛けた、ニューヨークのタイム・ライフ・ビルにあるメキシコ料理のレストラン、ラ・フォンダ・デル・ソル (La Fonda del Sol)では、店名の太陽をモチーフとしたデザインを多用し、新しい時代のデザインとして称賛されました。ちなみに日本の大阪万博(1970年)で太陽の塔を制作した芸術家・岡本太郎もメキシコでの滞在経験から強いインスピレーションを得ていた言われています。ジラードと岡本太郎が同じ系譜にあると想像すると、とても面白いですね。

Braniff International Airways

ブラニフ航空

1965年にはテキサス州の航空会社、ブラニフ航空(Braniff International Airways)の総合的なリブランディング「The End of the Plain Plane(退屈な飛行機の終焉)」を手掛けています。ベージュ、黄土色、オレンジ、ターコイズ、ベビーブルー、ミディアムブルー、レモンイエローとラベンダーの各色に鮮やかに彩られた機体は、ジェリー・ビーンズ艦隊と呼ばれました。

travelingmen
ジラードのテキスタイル・ファブリックは現在も、Maharam (マハラム)のTextiles of the 20th Centuryコレクションとして入手可能です。

Filed Under: Herman Miller Story 関連タグ:アレキサンダー・ジラード, ハーマンミラーの歴史, マハラム

Charles Eames

2018/09/22 By TARO KATAGAMI

チャールズ・イームズ


Molded plywood


Leg Splint

チャールズ・イームズがキャリア初期に心血を注いだのが成型合板 (Molded Plywood) 技術です。ロサンゼルスでMGM映画スタジオの美術スタッフとして働く傍ら独自に合板の成型技術を研究していました。当時は合板成型技術は、まだ新しい技術だったからです。1942年、アメリカ海軍から怪我をした兵士の脚に使用する添木のオーダーが入り事業として成立するようになります。イームズ最初の量産成型合板製品が、このLeg Splint (レッグ・スプリント=脚の添木)でした。イームズはプライフォームド・ウッド社を設立しますが、原材料の供給や資金の問題により、デトロイトのエヴァンス (Evans Products) 社にレッグ・スプリントの製造権・販売権を売却します。イームズもロサンゼルスのエヴァンス支社 (901 Washington Boulevard) に拠点を移します。これにより安定的に製品を製造する地盤が整いました。

1945年、第二次大戦も終わりイームズの成型合板技術を使用した製品は家具業界の人々から注目を浴びます。ジョージ・ネルソンもその一人でした。ネルソンは、D.J.デプリーにイームズとの契約を強く提案します。自分がハーマンミラーと契約しているロイヤリティを削ってでも、と。まずハーマンミラーはエヴァンス社の家具販売権を取得し、のちに家具製造権も取得しています。もともとエヴァンス社は工業製品製造会社で家具販売とは無縁でした。以後、イームズ家具の製造販売はハーマンミラーと密接な関係で進行してゆくことになります。

シェル型

シェルチェア

イームズは成型合板以外にも、ガラス繊維を使用したFRP (繊維強化プラスチック) や金属のメッシュワイヤーを使用した製品に挑戦しています。この試みは、背と座が一体成型されたシェル (Shell) 型チェアの製品化に腐心した結果といえます。

当初は成型合板でシェル型を実現しようとしたものの当時の技術では困難でした。FRPとメッシュワイヤーでシェル型チェアの製品化にたどり着きました。“We wanted to make the best for the most for the least.” (最小限のもので最高のものをつくりたい) とイームズは語ったそうです。シェル型のチェアも単一の素材またシンプルな構造で成立しています。

現在ではシェル型チェアは見慣れたかたちですが、椅子のかたちの歴史上では怖いくらい革新的な製品です。背と座が一体成型かつ曲面で構成された製品は、イームズ以前に存在していました。しかしそれらの製品の曲面はいずれも二次元曲面に留まっていました。

継ぎ目のない三次元曲面で一体成型されたシェル型チェアは、レッグ・スプリントが怪我をした脚を包み込んだように優しく身体を包み込みます。シンプルで普遍的でありながら大きな革新をもたらした製品です。このかたちが実現できる素材に貪欲にチャレンジし続ける、イームズはそうしたスタンスであったような気がします。

イームズCharles Eames 1907-1978

Filed Under: Herman Miller Story 関連タグ:イームズ, シェルチェア, チャールズ, ハーマンミラーの歴史, レッグスプリント, 成型合板

George Nelson

2018/09/21 By TARO KATAGAMI

ジョージ・ネルソン

Storagewall

Storagewall

ジョージ・ネルソンはエール大学で建築を学んだのち、1935年にArchitectural Forumという建築雑誌の編集者になりました。 “Tomorrow’s House” (Henry Wrightと共著) という本の中で、ネルソンはStoragewallというコンセプトを発表します。ストレージウォールは、キャビネット/シェルフ/ドロワー/クローゼットからなるモジュール式の壁面収納家具システムでした。

そのコンセプトに興味を持ったD.J.デプリーは、ハーマンミラーのニューヨーク営業担当者に著者とのアポイントメントを指示します。営業担当者は、最初Henry Wrightに連絡をとりますが、ネルソンを紹介されました。デプリーはネルソンとミーティングを行いギルバート・ローディの後任業務の打診をします。

編集者としてキャリアを積んできたネルソンは、デプリーのオファーに当初難色を示したと言われています。しかし、結果としてハーマンミラーのディレクターに就任します。

ジョージ・ネルソンGeorge Nelson 1908-1986

1948年ハーマンミラーコレクションの序文
ジョージ・ネルソンデザイナーの視点から見ると (そしてこの視点のみが私には適切なのですが) ハーマンミラーは、とても優れた会社です。単に企業としてみると、ハーマンミラーはアメリカ国内の何千もの他の企業と区別ができないでしょう。小さな会社で小さな町にあります。その製造設備は十分ですがごく普通です。そして、この会社のオーナーが経営をしています。 (中略)
製品は誠実でなければならない。ハーマンミラーが、ある年代の複製品を製造することを中止してから約12年経ちます。なぜならデザイナーのギルバート・ローディが、伝統的なデザインを模造することは、美学的に不誠実だと経営陣を説得したからです。 (この話を最初は話半分で聞いていましたが、その後の数年でこの話の意味を身をもって知りました)
私たちが何を作るかは私たちが決めます。ハーマンミラーは市場が何を「認める」のかを理解するために、消費者調査や製品の予備テストを実施したことはありません。デザイナーと経営陣が家具の特定の問題に対する解決策を気に入れば、それは製造されます。いわゆる「一般人の好み」という基準に従いません。「一般購買者」を評価する特別に信じている方法もありません。ハーマンミラーのデザインの新鮮さに数多くの人が魅了される理由は、この会社が誰の真似もしていないからなのです。

ネルソンは当初、規模がそれほど大きくない家具メーカーであるにかかわらず、社長以下やたら志の高い人々を前にして少したじろいだような気がします。そう考えると、上記の序文はネルソンが“腹を括った宣言”のようにも思えます。事実、その後ネルソンのもとでハーマンミラーが世に送り出した製品は“誰の真似でもない”ものでした。

ネルソンは製品開発に留まらず、製品を販売するにあたってのマーケティング・アドバタイジング・ブランディングなどすべてをコントロールしていました。それらの表現手法も製品に劣らず斬新なものでした。販売前に消費者テストはしないと言い切る反面、新しい価値を持った製品を人々に正しく伝える手法にかなりの労力を費やしたのではないでしょうか。

Filed Under: Herman Miller Story 関連タグ:アクション・オフィス, ジョージ・ネルソン, ハーマンミラーの歴史

Gilbert Rohde

2018/09/20 By TARO KATAGAMI

ギルバート・ローディ

Gilbert Rohde  1894-1944

1930年、ギルバート・ローディは問題を抱えていました。ローディには家具デザインに関するアイデアが溢れていました。けれど、そのアイデアを製品として製造し販売してくれる家具メーカーがありませんでした。そんな折に、ローディはD.J.デプリーと出会います。当時、D.J.デプリーも問題を抱えていました。彼の会社ハーマンミラーは、世界恐慌のあおりで会社が危機的な状況だったのです。生き残るためには大きな武器が必要でした。

新しい時代とともに、アパートや小規模住宅用に住む人々が増えている、とローディはデプリーに語りました。

ローディ “だから、これまでとは違った家具が必要なんですよ!”
デプリー “えっ!じゃぁ、そんな家具ハーマンミラーのためにデザインしてくれる?”
ローディ “もちろん!”

ハーマンミラーとの契約を締結したローディはコンパクトな生活空間に対応した家具をデザインします。ローディは、カードテーブルにもなるダイニングテーブル、ベッドになる長椅子、本棚を収容したテーブルなど、一つの家具に複数の機能を持たせることを好みました。

エグゼクティブ・オフィス・グループ

エグゼクティブ・オフィス・グループ

そして1942年、エグゼクティブ・オフィス・グループ (EOG) の導入によりハーマンミラーはオフィス家具市場に参入します。エグゼクティブ・オフィス・グループは、シンプルで装飾のなモジュール式の製品で200以上の組み合わせとバリエーションから選択可能な製品群でした。ローディは、ハーマンミラー製品の多様性と有用性を強調しました。

Exective office Group

エグゼクティブ・オフィス・グループのコンセプトは、現在のオフィス家具の原型ともいうべき革新的なコンセプトでした。ただ当時としては、あまりにも先進的なコンセプトであったため知識不足の小売業者には販売が難しい事態が起こりました。そのためハーマンミラーは、製品に関する訓練を受けた人材を配置したショールームを開設し普及に努めました。

1944年にローディは亡くなります。しかしローディが切り開いたモダンで生産性の高い家具、そしてモジュール式オフィス家具の製品コンセプトは、後任のジョージ・ネルソンに受け継がれ20世紀を代表するデザイン家具製品たちへと発展してゆきます。

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D.J.De Pree

2018/09/19 By TARO KATAGAMI

D.J.デプリー

ミシガン州ジーランド

ハーマンミラーは、アメリカのミシガン州ジーランドに本社をおく家具メーカーです。ハーマンミラーの礎となるスター・ファニチャー・カンパニーが創業されたのは1905年。アメリカを代表する老舗家具メーカーです。

ミシガン州の産業としてはデトロイトを中心とした自動車産業が有名ですが、ミシガン州第2の都市グランドラピッズ (Grand Rapids) は家具産業の街です。森林資源が豊かな地域特性もあり、古くから多くの家具メーカーが拠点を構え“ファニチャーシティ”と呼ばれています。ハーマンミラー本社のあるジーランドもグランドラピッズ近郊です。

Herman Miller Furniture

D.J.De Pree(ダーク・ジャン・デプリー)が義父の出資によりスター・ファニチャー・カンパニーの経営権を取得し、義父の名を冠した会社「Herman Miller Furniture」としたのが1923年のことです。D.J.デプリーの奥さんがNellie Millerさん。そのお父さんの名前がHerman Millerさんだったんですね。ここまでは当時のグランドラピッズ界隈の家具メーカーでも取り立てて珍しい話ではなかったのかも知れません。

社長に就任したD.J.デプリーは1929年に発生した世界恐慌に直面します。ハーマンミラーも経営危機に陥ります。その際に、D.J.デプリーは家具デザイナーのギルバート・ローディのアドバスに従い、モダンファニチャーの製造にシフトします。ハーマンミラーは、新しい素材とデザインの家具を製造することにより伝統的な木製家具製造から脱却しました。

ところが1944年にハーマンミラーのデザイン部門を統括していたギルバート・ローディが亡くなってしまいます。D.J.デプリーは、後任としてジョージ・ネルソンをデザイン部門のディレクターとして迎えます。そしてネルソンに才能を見出されたチャールズ&レイ・イームズによる革新的なデザインの製品が製造され世に送り出されます。

D.J.DePreeD.J.De Pree 1891-1990

D.J.デプリーのもとでハーマンミラーが製造した製品は20世紀代表するマスターピースとして人々の記憶に刻まれています。しかし、D.J.デプリーが見出したギルバート・ローディやジョージ・ネルソンには家具業界において目覚ましい業績がハーマンミラー以前にあったわけではありませんでした。D.J.デプリーの慧眼に驚くほかありません。

1960年にD.J.デプリーはCEO職から退きます。その時点でハーマンミラーに比するイノベーションを起こした家具メーカーはありませんでした。おそらくD.J.デプリーが見ていたものは、常に「これから」の景色だったのでしょう。

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